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「手話狂言との出会いから、手話能への挑戦」能楽師・大島輝久さんインタビュー(前編)

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「聞こえる人も、聞こえない人も一緒に楽しむ能狂言」をコンセプトにした、「手話で楽しむ 能狂言鑑賞会」が12月8日(日)にりゅーとぴあ能楽堂で開催されます。新潟初上演の「手話能」の創作の中心になって取り組んできた喜多流能楽師の大島輝久さんに、手話能が誕生した背景についてお話を伺いました。

大島 輝久 (おおしま てるひさ)
シテ方喜多流能楽師。1976年生。100年以上の歴史を持つ喜多流大島能楽堂(広島県福山市)を受け継ぐ大島家5代目。祖父・久見、父・政允、塩津哲生に師事。3歳の初舞台以降、国内外の多くの能楽公演に出演し活躍する一方で、英語能や手話能、VR能・3D能といった画期的な公演への出演や企画制作など、能の新たな可能性を探る活動も積極的に行っている。重要無形文化財総合認定(能楽)。

 

手話狂言のレベルの高さに圧倒されて

――手話能のきっかけは、手話狂言との出会いだったそうですね。

はい。手話狂言は40年近い歴史があります。女優の黒柳徹子さんが著書『窓ぎわのトットちゃん』の印税で、耳の不自由なろう者の方々のプロの演劇団体「日本ろう者劇団」をお作りになり、その活動の一環で始められたものです。狂言師の三宅右近先生が指導なさっていて、国立能楽堂での定期公演や海外公演も行い、国際的にも高く評価されています。
恥ずかしながら、私自身はこの活動を10年ほど前に初めて知りました。2011年に喜多流の財団が公益財団法人になり、公益的な事業を模索する中で、喜多能楽堂の清水言一館長より「手話狂言を上演できないか」という提案がありました。そこで、国立能楽堂で初めて手話狂言を拝見したのですが、あまりのレベルの高さに圧倒されました。

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――プロの能楽師の目から見ても、手話狂言は高いレベルの舞台だったのですね。

演じていらっしゃる方は全員ろう者で、台詞を全部手話でされるのですが、その表現力が素晴らしい。その手話にあわせ、三宅狂言会のプロの狂言師が放送室から台詞を発声をするのですが、そのコンビネーションもすごい。
劇団を喜多能楽堂にお招きして公演をすることになり、喜多流としては、手話同時通訳の能をやってみることにしました。客席前に手話通訳者を配置し、能楽師の台詞や謡を手話にしてもらう形です。こうして手話狂言と手話同時通訳能の上演をセットで始めたのが約10年前になります。

手話通訳能から、能楽師が手話演技する手話能への進化

――手話通訳能から手話能へと進化していったきっかけは?

何度か公演を重ねるうち三宅右近先生から「大島君、君たち能楽師も手話をやってみたらどうだい?」と言われ、台詞が少なく動きの多い能「土蜘蛛」をご提案いただきました。それで挑戦することになり、2021年に立役の能楽師全員が手話を交えて演技する手話能を初上演しました。ただ、能には地謡というコーラス隊が謡う場面があるのですが、そこはまだ手話の同時通訳の状態でした。その形で2回ほど上演した後に、右近先生から「舞台上の能楽師も舞台下の通訳者も手話をすると観客の目線が散るから、手話通訳者を出さないやり方を考えてくれないか」と言われたんです。

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――挑戦に次ぐ、挑戦ですね。

さて、どうしようかと思いました。「土蜘蛛」は、源頼光が原因不明の病で苦しみ、心が弱っている最初の場面で、地謡が頼光の心情を謡うのですが、考えるうちに「これは地謡が謡っているけれど頼光の心情を代弁しているのだから、この場面は頼光の立役が手話をすればいいんだ」と思いつきました。地謡の場面も役の能楽師が手話をすることによって、手話通訳をつけない手話能≪完全版≫が2022年に出来上がりました。

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