25年が過ぎて見つけた25の話 #16, #17
この連載を始めてから早5か月が経ち、師走になりました。
本日は、“25の話#11”に続く話題です。#11は、りゅーとぴあ建設中に杭工事で苦労したエピソードでしたが、この話を郷土史から“掘り下げて”みたいと思います。
まずは#11の話を振り返ります。
“(杭工事で)掘り進めている途中で大きな石がたくさん出てきて止まってしまいました。石を砕く工法に変更して切り抜けることができましたが、たいへんでした。昔ここは信濃川でしたが、ネットに石をつつんで護岸に沈めるようなことを昔の人が行い、新潟地震で沈下したものがこのときに出てきたのだと思います。”
このエピソードの
・りゅーとぴあの敷地は、信濃川を埋め立ててできた。
・敷地の奥深くに石があった。
について、新潟市歴史博物館の小林隆幸さんに尋ねたところ、資料で説明してくださいました。
① 埋め立てられた時期について
りゅーとぴあ付近の埋め立てが始まったのは昭和9年です。これは大河津分水ができたことと深い関係があります。大河津分水により下流の信濃川の水量が管理できるようになったことで、土地を有効活用するため川の両岸が埋め立てられました。
青いエリアが埋め立て、造成された部分です。
川幅が狭くなったところに、昭和18年に鉄橋がかかりました。それ以前は白山駅が越後線の発着点でしたが、白山駅と新潟駅が繋がったのです。
埋め立てられる前は、りゅーとぴあの隣に建っている“県政記念館”の脇が川岸でした。
25年が過ぎて見つけた25の話 #16 昭和9年から信濃川を埋め立て始め、りゅーとぴあの敷地ができた。
② 敷地に埋まっていた石について
これは水制のための石積(ケレップ)だと思われます。水の流れの勢いを抑え川岸が削られるのを防ぐために設置されていました。
こうした水制の設備は江戸時代にも設けられ、その様子が当時の絵図にも描かれています。
25年が過ぎて見つけた25の話 #17 りゅーとぴあの敷地に埋まっている石は、川岸が削られるのを防ぐための石積(ケレップ)
~番外編~
信濃川を埋め立てた敷地には、新潟市公会堂や体育施設が建設されました。その公会堂が老朽化して建て替えられたのがりゅーとぴあです。ここでは、りゅーとぴあ周辺の歴史について小林さんから伺った話を紹介します。
1.日本海大博覧会
現在の市陸上競技場のあたりにあった総合運動場では日本海大博覧会を開催する計画がありました。
2.昭和”大”橋
初代昭和橋は昭和6年(1931年)架橋。信濃川の埋め立て地の開発には橋が必要とのことで架けられました。現在の橋は昭和39年、新潟国体を前に架け替えられた3代目。それまでの名称は「昭和橋」でしたが、このときに「大」の字がつきました。
同年の新潟地震で被災した跡が今もなお残っています(写真下)。親柱には陸上競技場の聖火台と同じく火焔型土器のモニュメントが設置されています。
3.新潟は町全体が港だった
1655年に新潟の町ができたころは、現在の上大川前が信濃川の川岸でした。そのあと、信濃川で運ばれた土砂が川岸を埋めていき、町から川が離れていきました。そして現在の下大川前あたりまで土地が広かっていきました。当時の新潟は日本海海運の拠点でしたが、廻船が着岸できる埠頭がなかったため、水上に停泊した状態で、小型のはしけ船に荷を積み替えて町まで運んでいました。町には堀が巡らされ、いたるところに船を着けることができました。
江戸時代の半ばから明治時代前半にかけて、北前船と呼ばれる廻船が活躍しました。新潟湊は北前船の寄港地として繁栄し、現在新潟市は、日本遺産「北前船」に認定されています。
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4.みなとぴあ開館20周年!
新潟市歴史博物館みなとぴあは2004年3月27日に開館し、今年20周年を迎えました。現在、20周年事業が開催されています。みなとぴあホームページ
説明と資料提供
小林隆幸さん
1998年に市職員として採用され、博物館建設室に配属。学芸員として、博物館の展示、調査、収集に携わり、現在は副館長です。
『25年が過ぎて見つけた25の話』
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#9~#11 建設工事その2
#12 条例
#13,#14 楽器
#15 自主事業