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25年が過ぎて見つけた25の話 #21,#22

25の話「新潟から世界へ」の必然③

前回に続き、坂内さん、富永さんとN-pac Workshopについて深堀します。

インタビューの冒頭に、坂内さんはこう言いました。

坂内 今回、石川さんから話を聞きたいと言われたときから、“新潟から世界へ”は必然だった!という題名が良いと思っていました(笑)。N-pac Workshopの開講式で長谷川逸子さんが”世界へ向けた発信”とお話しされたこと、いまNoismが”新潟から世界へ”活動していることはつながっていたんだと今になってから思うのです。

 

25年が過ぎて見つけた25の話 #21,#22の画像

(図をタップするとNoismの説明ページにリンクします)

 

石川 タイトルが妙手ですね!

坂内 りゅーとぴあの建設は、新潟市の一大事業でした。それは各種報道、Workshopを一緒に受けていた当時の市民文化会館整備課の職員の様子からも伝わってきました。
平成の始め頃、全国各地で文化ホールが次々に建てられました。また多目的は無目的と言われ、専門ホールが作られるようになっていきました。また専門ホールには専門集団が必要という考えも、作品を消費するのではなく、新たな作品の創造・発信が必要という考えも出ていましたが、建設にかける予算はあっても建設後の文化事業に予算をかける自治体は少なく、作ったはよいがほとんど使用されず中身が伴わない“ハコモノ”と揶揄されていました。新潟市はそのような流れの中、建設というハードだけでなく、その後のソフトも含めて“新しいホール”を作りたいという姿勢がこのWorkshopの実施につながっていたと思います。

25年が過ぎて見つけた25の話 #21,#22の画像

 1998年オープニング事業のチラシ(表紙)

 

坂内 開館当初より大幅に削減されているとはいえ、開館から25年経過しても市が文化事業補助金をしっかり確保いただいていることはその理念が継承されている証ではないでしょうか。

富永 私は新潟県の外から移住してきた人間ですが、新潟には世界にアピールできる素材が多くて驚きました。米や酒だけでなく、モノづくりの技術とか芸術祭のような外客を引き寄せるものまで、さまざまな分野で尖ったコンテンツが存在しています。りゅーとぴあのような世界発信を志すホールが誕生したことは、よそ者の私から見ても全く不思議ではありません。

石川 25年前から世界発信することを考えていたって、当時としては新しい発想ですよね。ワークショップは長谷川逸子さん以外にも企画に携わった方がいらしたとか。

坂内 ワークショップの具体的内容は当初今野裕一さんという方がされていたと思います。開講式では、今野裕一さんのお話も印象に残っています。
ワークショップに関するところを拾いあげてみました。
三つのホールの個性をそれぞれに発揮させながら、全体として統一的な運営をしなければならない。どうしても各ホールで行われる各ジャンルを全部理解できるスタッフが必要です。
・この講座に答えはありません。(中略)芸術の現場は一回一回やり方を変えていく仕事です。
・講座で見て欲しいのは、講師の人が今まで仕事をしてきた現場での姿勢です。芸術へのスタンスとか、やり方を考え出す過程というようなものを豊富な経験の中から一例として見せてもらうということです。
・見る人も、出演する人も、運営する人も様々で、表現の形態に定番はありません。その中で自分たちがどういう風にスタッフとしてやっていくか、違うものの差をどういう風にやってクリエイティブしていくのか。その度ごとにきちんとスタンスを作ってとっていかなくてはならないと思います。
 出典 “スーパースタッフvol.1アート・マネジメントの現場 ドキュメントN-PAC Workshop”ペヨトル工房 

坂内 このとき、今野さんが思い描いたスタッフの姿を私も含め現在のりゅーとぴあのスタッフは体現できているのだろうか?スタッフ一人一人があらためて考える必要があると思います。Workshop当時、みんな熱かった。議論を通り越して、口論に近い状況になっていたこともありましたし(笑)新しいものが誕生するエネルギーに満ちていたと思います。

富永 坂内さんは今もなお熱いですよね。オープンして25年が経ち、りゅーとぴあのスタッフの多くは冷えて固まったハワイ島の溶岩みたいに見えるかも知れません。でも、話してみると心の中にマグマを滾らせている人は少なからずいる。創造の土壌は失われていないと私は思います。

石川 “卵”から生まれて育てる、この意識は仕事のうえで基礎にしたいですね。スタンスの作り方は組織で考えることですし、時代や社会に左右される面もあります。“今のスタッフはN-pac Workshopの理念を体現できているか”を評価するなら、25の話#19,#20-「新潟から世界へ」の必然②-で坂内さんが話した、
 ・コミュニケーションの重要性
 ・“トラブルがない仕事はない” 何度打たれてもそれでも前へ進める。
これらを評価軸にしてみてはどうでしょうか。そうしたとき、私は60点くらいだと思います。決して今が悪いということではなく、ずっとこれくらいですよ。坂内さんと富永さんはいかがですか。

坂内 石川さんはもっと自己評価を上げてもよいと思う。昨年の指定管理のプレゼンテーションでも運営厳しい中、「やってやるぞ!」と言ったそうだし…。私は自分に甘いので、80点くらいのつもりでいます。そう思わないとやってられない(笑)

富永 私も80点にしておこうかなあ。自己肯定感を持つことは大切です(笑)。
25年という時を経て、社会は大きく変わりました。特にコロナ後はリモートが当たり前になり、何でもサブスクで楽しめる世の中になりましたね。舞台芸術よりも簡単に楽しめるエンタテインメントの競合が次々に誕生しています。Z世代の消費行動なんてコスパ・タイパ重視ですから、舞台芸術のような面倒くさい商品を扱う身としては頭が痛い(笑)。
そんな今だからこそ、トラブルのない仕事はないと認識し、向かい風でも前進する力が必要だと思うのです。
何カ月も前にチケットを予約し、公演当日はわざわざ会場に足を運び、知らない人の隣に2時間も座ってステージを楽しむ。このろくでもない、すばらしき舞台の魅力をどのように広報するか、私はずっと考えています。

つづく

25の話#21 N-pac Workshopの理念は講座が終わったあとも継承され、“新潟から世界へ” Noismが活動している。

25の話#22 “何度打たれてもそれでも前へ進める”という N-pac Workshopの教えは、今こそ心に留めたい。

 

 

25年が過ぎて見つけた25の話 #21,#22の画像

坂内佳子さん(左)と富永広紀さん(右)
富永さんは現在の広報営業課長、坂内さんはその前任者です。仕事柄、共通の話題が多く、坂内さんの話に富永さんが加わることで深みが出ました。
この写真は劇場ホワイエのドア越しに撮影しました。手前の英字NIIGATA CITY PERFORMING ARTS CENTERは新潟市民芸術文化会館の英語表記です(この略称もN-PAC)。

 

 

『25年が過ぎて見つけた25の話』

#1   ロゴマーク

#2~#5 設計

#6~#8 建設工事

#9~#11 建設工事その2

#12  条例

#13,#14 楽器

#15   自主事業

#16,#17 敷地

#18  「新潟から世界へ」の必然①

#19,#20「新潟から世界へ」の必然②

 

富永さんが編集しているりゅーとぴあマガジン にJIA25年賞が掲載されています。

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